チャン・イーモー「初恋のきた道」( 1/18,朝日シネマ)

 恥ずかしい話だが,最初から最後まで涙が止まらなかった。物語りが悲しかったからではない。好きな人を思い続け待ち続けるヒロインの一途な気持ちとその可憐な姿に感激したのである。その一途な気持ちと可憐な姿は,物語りの舞台となる風景(中国の辺鄙な村)によってより際立たせられ,まさに私は画面に釘付けにされてしまった。

映画そのものの内容は,じつはそれほどたいしたものではない。同じ監督の「菊豆」などと較べると,対立や葛藤など目に見えるドラマはない。したがって,涙が止まらなかった分,他人に「よい映画だった」とは気恥ずかしくてやや言いにくい。

物語りは,地方の貧しい村に新しく赴任してきた若い小学校教師を慕う若い娘のひたむきで一途な行動を描いているだけである。その小学校教師に食べてもらおうと一生懸命に毎日の献立を考えて食事を作ったり,彼が子供に教える声をいつまでも教室の外で聞いていたり,彼が生徒を送り迎えする道中を待ち伏せしたり,過去の政治活動で町へ連れ去られた彼が戻るのを村の入口で毎日待ち続けていたり,という行動をヒロインが取っていく。その行動自体はこのヒロインがかわいいから魅かれるものの,そうでなければそれはいささか偏執病的にさえ感じられるものだ。「この可憐な姿の女の子がここまでやってくれるのか」というところに感動してしまうのだ。その意味で,おそらく,これを見て感動するのは女性よりも男性の方だろう。それも,もう「青春」という言葉が遠い昔に過去のものになってしまった中年以上の男性だろう。

チャン・イーモーはこの恋物語りを回想の形で描く。父親(ヒロインが恋い慕う小学校教師)の死のために故郷に帰ってきた「私」(都会でビジネスマンをしている)が,昔の様式での葬儀を頑固に主張する母親(ヒロイン)の心を思いやるところから回想に入っていく。母親の心の中には,父親への思いが,特にはじめての出会いから結ばれるまでの思いが,今も脈々と息づいている。したがって,回想の形で描かれるこの恋物語りの行方は最初から明確である(恋が成就し,結婚し,「私」が生まれて成長しているのだから)。回想で描かれることの中心は,なぜ母親が頑固に昔の様式の葬儀にこだわるのかを「私」の視点で解きほぐしていくところにある。回想の中のナレーションはその「私」である。

映画で描かれる美しい風景の中心は村と村の外をつなぐ道である。この道を通って父親はやってきた。この道で生徒を送り迎えする父親を母親は待ち伏せた。この道を通って父親は町に連れ戻された。この道で母親は父親が町から戻ってくるのを待った。それも雪にまみれて重い風邪をひいて倒れてしまうまで。そうした思いがいっぱいつまった道を,母親は父親の遺体と一緒に歩きたいのである(昔の様式の葬儀では人々が柩をかつぎ,人々は柩とともに墓地まで歩いていく)。この葬儀への頑固なまでのこだわりが,この恋物語のヒロインの思いの鮮烈な激しさを浮き彫りにする。その点で「初恋のきた道」という日本語タイトルは秀逸だと思う(原題は「THE ROAD HOME我的父親母親」)。

この映画では,現在がモノクロ,そして回想がカラーである。常識から言えば,現実と非現実の描き方が逆転している。しかしことことによって,回想の非現実が「私」や母親にはまさに現実であることを示している。そしてモノクロとの対比でカラーがヒロインの思いの鮮烈な激しさを強調している。それと同時に,ビジネスマンとして成功しているらしい「私」の現代中国での生活の味気なさが,その母親と父親の激烈な恋があった時代との比較で表現されているようにも感じられた。ちなみに,この「私」は,彩りに欠けた(モノクロの)独身という設定である。

この映画は素晴らしいシーンの連続であったが,とりわけ私の心に鮮烈に残ったシーンが2つあった。

ひとつは,食事に呼ばれて小学校教師がはじめてヒロインの家を訪ねるシーンである(村の家々が順番に小学校教師を呼んで食事の世話をすることになっている)。暗い家の中をバックにして入口の真ん中にヒロインがほほ笑みながら立っている。ヒロインの魅力がすべて集約されているようなこのシーンを見たときに「ああ,まるで絵のようだ」と思った。するとその後でナレーションが「父は言った。初めて母の家に行った時,母が入り口に立って父を迎えた姿は一幅の画のようで,一生忘れないと」と語ったのだ。まるで私の思いを同意するようなタイミングで。このことでこのシーンは完全に私の心の中に焼き付いてしまった。通常,ナレーションのついた映画は,見ているものの感情を無理やりある一定方向に持って行くような押し付けを感じることが多く,私は余り好きではない。しかしこのときばかりは,自分の思いをより増幅するという効果を見事なまでにもたらしてくれたのだ。

もうひとつはラスト近く,現実のシーンで,葬儀が終わって町に帰る「私」が父親の教えていた教室で父親の作った文章を村の子供達に読むシーンである。「私」もかって師範大学で学んだのだが,両親の期待に反し,教師にならないでいる。その「私」が母親と父親のために1時間だけ教壇に立ったのである。その声にひかれて母親が教室の外にまでやってくる。その老母の姿が若き日の母親(=ヒロイン)の姿に代り,「私」の声はやがて若き日の父親の声に変わる。そしてラストシーン,子供達を連れて歩く若き日の父と,小走りに走っていく若き日の母,という回想に移っていく。

この映画,どのように終わらせるかを途中で気にしながら見ていたのだが,見事なラストシーンであった。人間の物理的な命は肉体の消滅とともに終える。しかし,遺伝子というかたちで親から子へと引き継がれていく精神的な命,つまり「たましい」というものがあるのだということをこのラストシーンが教えてくれる。両親の間の間にあった鮮烈な愛は「私」の中に記憶として,肉体として,遺伝子して生き残っていく。大げさに言えば,愛の永遠性というようなものをこのラストシーンが象徴している。つまり,だから,この恋物語に涙が止まらないほどに感激したのだ。

(2001年1月26日,中村滋延)